前向きってやつが分からない。
ポジティブってやつが分からない。
何をすれば前向きなのか、
どう考えればポジティブなのか、
それは誰が決めることなのか、
それに一体どんな価値があるのか。
私には分からない。
音楽を聴いても、
自己啓発本を読んでも、
答はそこに書いてあるのに、
私には理解できない。
ポジティブに生きましょうね。
そうすれば未来は明るいですよ。
前向きに行動すれば、
きっと何か得るものがあるはず。
ああ、そうですか。
それは素晴らしいですね。
それは素晴らしい呪いですね。
それを呪いのようだと思う私には、
きっと一生分からない。
機嫌が良い時も悪い時も
それは私です。
心が病気の時も健やかなる時も
それは私です。
それは私です。
それは私です。
けれど人は機嫌が良くて心が健やかなる私を望みます。
そうです。
私もそれを望みます。
機嫌が悪くて心が病気の私は誰にも受け入れません。
そうです。
私もそれを受け入れません。
人は我儘でしょうか?
私は我儘でしょうか?
いいえ。それは当然ことです。
だけどそれでは、
機嫌が悪くて心が病気の私はどうすればいいのでしょうか。
機嫌が良くて健やかなふりをすればいいのでしょうか。
はたしてそれは私でしょうか?
君が必要だった。
私が笑うために
私が幸福であるために
君が必要だった。
でも君はどうだろう?
君が笑うために
君が幸福であるために
私は必要だったろうか?
私たちはとてもアンバランスで
私が君を必要とすればするほど
君は不幸になっていくような気がした。
それでも君は笑ってくれた。
幸福だとも言ってくれた。
でもそんなのは嘘だ。
私の病弱な心に悩まされ
私の病弱な心に振り回され
君はどんどん追い込まれていった。
そんな関係は君にとって良いものをもたらさない。
私は怖かったよ。
このまま君を不幸にするのが
君の生活を台無しにするのが
怖くて仕方なかった。
私は君から離れることを決めて
君に軽蔑されようと
酷い方法で君を裏切った。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
だけれど他に私たちに道はあったろうか?
こんなのは言い訳だ。
分かってるよ。
それでも君が、今、幸福だったらば。
それだけで私は救われるのに。
ねぇ。
君は今、笑っていますか?幸福ですか?
役に立たない人間は嫌いだ、と人は言う。
そんなら自分はそんなに有能かい?と問いたくなる。
自分にとって得な人としか付き合わない、と人は言う。
そんなら自分は人にとってどれだけお得だい?と問いたくなる。
誰も彼もがこっそり胸の中で損得勘定。
そんなことは分かっている。
自分が他人にとって『お役立ち』じゃないとき、
いとも簡単に切り捨てられるんだってこと。
だけど私は思うんだ。
損だ得だと切り捨て切り捨て
後には何が残るんだろうって。
自分一人がぽつねんと、
同じく他人に切り捨てられて残るんじゃないのかって。
何が得で何が損かなんて
その時その時誰にもわかりゃしないのに
誰かを切り捨て
自分も切り捨てられながら
傷つけ合って生きてるんじゃないかって。
そんな生き方は虚しい、と私は思う。
初めて遺書を書いたのは、いつだっただろう?
まだ小学生だったことだけは覚えている。
大人の使う無地の便箋を買って
子どもの私は一生懸命遺書を書いた。
泣きながら遺書を書き、
いつ死のう。
さぁ死のう。
そう思いながら中学生になり、
中学生になると一週間に一回は遺書を書いた。
更新されていく遺書は
馬鹿馬鹿しいもので
実行されない死は
遠くて眩しかった。
中学三年の冬に父親が事故で死んだとき
私は泣いて、泣いて、泣いて、
そのまま死ねたらいいのにと思ったけれど
それ以来遺書の更新をやめた。
その代わり私は
遠くて眩しかった死に
いよいよ手を伸ばすことを覚えた。
高い所に登ればそこから飛び降りることを
鋭利な物を見ればそれで自分の胸を突き刺すことを
そんなことばかり考えながら、私は過ごした。
死はいつでもそこにあった。
近くて、けれど相変わらず眩しかった。
死は選ばれた人間にのみ訪れる。
どんなに焦がれても、
生きているのだから私は選ばれなかったということなのだ。
校舎から飛び降りようとしたあの時も、
誰もいない台所で包丁を握りしめたあの時も、
そして大量の薬を飲んで病院に運び込まれたあの時も。
私は選ばれなかった。
死は眩しい。
ダイヤモンドのようにキラキラ輝いて
いつでも私を誘惑する。
だけれど私がそうまで死に焦がれる理由は
それが美しいからじゃない。
それはちっとも美しくなんかない。
死は醜くて身勝手で恐ろしくて、とても汚らしい。
しかし生きることは苦行だ。
その苦行に耐え抜くだけの尊さが私の命にはない。
重さのない軽い軽い羽のような命だと私の中で誰かが笑う。
そんなものの為に苦しむことに、どうして耐えられるだろうか?
そうして膝を抱えて、
苦しい苦しいと言って泣く私の前にはいつも母親がいる。
母は優しく微笑んで、「耐えろ」と言い続ける。
「耐えろ」「耐えろ」と言い含められて、
私はようやく耐えている。
「おかあさん。
私はこんなにも苦しんでいるのに
あなたはそれを喜ぶのですか?」
問えば母は頷く。
それが愛情というものなのだ、と優しく微笑む。
母が私と同じように死を望んだならば、
私も同じく「耐えろ」というのだろうから
愛とはひどく残酷なものなのだ。
死は近くて眩しくて、そして遠い。
そして死の前にはいつでも愛が横たわり、
死へと続く道を阻むのだ。